危ないヤツ

 エレベーターで若い女性とふたりきりに乗り合わせてしまうときがある。女性はきっと「ワタシの後ろに乗っている男はもしかしたら危ないんじゃないかしら、危ないヤツだったらどーしよ、急に後ろから抱きつかれたらどうしよう。こわいわー、はやく七階に着かないかな。」とか思っているはずである。そんな風に思われていることを想像するとわたしは、知らず知らずのうち、「この女の期待にこたえなければならない!こたえなきゃ男が廃る!」と言う気持ちになって、つい指をポキポキ鳴らしたり、鼻息を荒くしてハァハァハァしてみたり、歯をガチガチさせたりしてみたり、ヒザをガクガクしたりしてしまう。というわけでわたしは危ない男と思われているはずである。

 しかし、こういったことはだれにでもある。彼女に「あなたは頼りになるわね!」とか言われたり、ママから「アナタはお姉ちゃんなんだからしっかりしなきゃダメよ!」とか言われると頼りになるしっかりしたヤツを知らず知らずのうちに演じてしまったり、「きみはバカだなぁ」なんて言われるとバカなヤツを無理して演じてしまったりするように、人間という物は期待に知らず知らずのうちに応えてしまうことがあるもんだ。こういった現象は医者と患者との間にも起こり、そういった現象を指す専門用語すらあるらしい。つまり、専門用語があるくらいによくあることなのだ。

 こういった「しらずしらずのうちに、イメージに当てはまるように振る舞ってしまっている現象」の典型例が、いわゆる「先生」と呼ばれる人たちに見られる。「いわゆる先生」というのは、学校の教師、政治家、医者、薬剤師、作家、などなどの人たちのことである。先生!先生!先生!ヘイ、ティチャー!と呼ばれ続ける内にいつのまにやら、自分は本質的に偉い人間で、他のヤツらとは根本的に違う人間だと勘違いしてしまって、みんなよりわがままに振る舞っても、自分勝手でも許されると思ってしまっている人がいるのだ。教師の「先生の言うことが聞けないのか!先生に逆らうのか、テメー!」とかいう論理のかけらもない、決まり文句がそれを如実にあらわしている。

 さらに人間関係から規模を大きくして考えてみると、「男は泣くモンじゃない」とか「女なら女らしく」とか、「ユダヤ人はわれわれより劣っている」とか、世間体とかいうのもこういった現象の延長線上にあるもの考えられなくもなく、世界を作っているのではないかとさえ思えてくる。というか、そうなのだ。世界をつくっているのだ。他人の言うこと、世間の言うことに知らず知らずのうちに応えたり、一般的なイメージに当てはまるように振る舞ってしまっている。
 「そりゃ、ヤバイかも」。というわけで、いまいちど、イメージに振り回されてないか振り返った方がいいかもしれない。エレベーターから死にそうな形相で走るように出ていった女性の背中を見ながらそんなことを思ったのであった。

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