ワライスト宣言

 日本において、笑いやユーモアという物は軽んじられる傾向にある。さらには軽蔑の対照になることさえもある。かつての日本では笑うことは恥であるとさえ、されていたらしい。そんな時代に生まれなくてつくづく良かったとおもう。ところが、イギリスではユーモアは、しばしば知識よりも重要視されると言う。と、他の国の例を挙げようとしたのだが、他の国ではどうなっているのか分からないので省略する。

 笑いは、洗練されたセンスと、「間」を要求される、高度な知的作業である。特に社会風刺を含んだ笑いや言葉遊びなどといった高度な笑いは、通常の見方とは違った見方をすること、意味のずれを生じさせること、などが必要となり、バカではとうてい出来ない芸当である。

 チャールズ・チャップリンやビートたけし、といった偉大なコメディアンが同時にまた偉大なアーティストであったり、偉大な科学者や芸術家たちは優れたユーモアセンスをもっているというのは実に示唆に富んでいる。

 フランスを代表する劇作家モリエールも「人を笑わせるのは並大抵ではありません。」と『女房学校批判』のなかで書いている。それに対して悲劇をかくのはチョロいモンだともいっている。

 さて、ポピュラーな外国語の学習方法として、目に見える物全て訳す、という方法がある。つまり「目に見える物をすべてその外国語に訳していってるといいです。たとえば英語を学習していて、木を見たらツリー、犬を見たらドッグといってみるのです。」という方法である。この方法は母国語を修得する方法とも似ていて、自然であり、その上、そこそこ楽しみながら出来るという利点がある。

 わたしは「笑い」を心から愛しており、日々の生活を「笑い漬け」にして生きていきたいと切に願っている。そこで毎日を笑い漬けにし、楽しく生き抜くための訓練として、目に見える物を全てダジャレにする、という方法を提案したいとおもう。

 さて、実例を挙げたいところであるが、わたし自身これを初めてまだ一日弱しか経っていないため、「あ!あんな所に本が、ブックりしたなぁ」とか、「さて、布団でも干すかぁ、でも布団が吹っ飛んだらどうしよう。」とか「電話にだれもでんわ。」などといった定番ダジャレしか言えていない。しかし、コレを毎日続けていくうち、革新的なダジャレが思い浮かぶとおもう。そのときは是非とも報告したい。

 また、毎日英語で物を考えていると、夢も英語で見るようになると言うが、毎日ダジャレで物事を考えていると、夢もダジャレで見るようになるのか?など興味は尽きないのである。
 

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