読書の秋
 いやぁ、秋ですね。秋と言えば読書しかないですね。みなさん、元気に明るく読書してますか?最高ですか?生きててホントに幸せですか?そんな生き方しててホントにいいんですか?というわけでヤッパリ秋ですね。繰り返しますが、秋と言えば読書です。
 わたしは本をよむことがカナリ好きで、ま、いわゆる読書家なわけです。読書家であるからには、いろいろと無駄な知識があって、いっぱしにカレーも作れなければ、みそ汁もムリ、メシもろくに炊けないのに、ま、自分のケツくらいはちゃんとふけますが、歯も磨けますが、えーそうです、たとえば富士山は日本一の山だとか、徳川家康は長生きしたとか、東京特許許可局は実際にはないのだとか、そういった知っていて一銭の得にもならない大変貴重な知識があるわけです。で、秋だからこそ、みなさん本を読むことをお奨めしたいわけですが、本にもいろいろな種類があって大別するとだいたい二種類に分けられる。それは楽しい本と楽しくない本。論理的思考が出来る人間なら今言ったことが正しいことがおわかりになるとおもう。
 で、楽しい本と楽しくない本についての解説はしないとして、本といえば、若者の活字ばなれが叫ばれて久しいですが、なぜ若者は活字離れしているのでしょうか。そして、活字離れが進む一方でなぜ携帯電話に依存する若者が出てきてしまうのでしょうか。話がだいすきで、年中話しまくり、いつも友達といないと、もう死にそうというような人たちが、なぜ本が嫌いなのでしょうか。
 わたしは考えました。本はなぜ読まれないのか。本の欠点について考えてみると、本は話が脱線しないこと、不確定要素が入らないこと、論理的におかしくないこと、などがあげられるかと思います。まぁ、実際は論理的に破綻しまくりでも、論理的にオッケーっぽく見せる努力は最低限してますな。つまり、そういった要素が無いために飽きてしまうと言えるのではないかな?どうかな?そうかな?とおもったわけです。たとえば現実の対話において、「AとBであるからCであり、CとDを比べることによりEより優れていることがわかるのよ!どう?すごいでしょ?」とか、何となく雰囲気だけでも論理的に話が進むことは先ずもって絶対になにがなんでもあり得ないわけです。現実では、たとえば、「つーかこのまえさ、裕次郎がオレん家たんだけどさー、そんときさぁー、おぉーとこんなことろにカブトムシが!!、で、そうそう、裕次郎がさ、ゲロ吐いちゃってさ、ゴホッゴホッゴホッ、やべー最近カゼがまたぶり返してきた!で、おー田中ぁー元気だったか?商売うまくいってるか?」とか、話が途中でそれたり、不確定要素が入ってくるわけです。
 というわけでわたしは、「不確定要素が入る」「話が脱線する」「論理的に破綻している」ような文章を心がけて書いていきたいとこころのソコから思っているのです。てゆーか、そんなの何にも心がけなければ書けるんでないの?とおもったアナタはすごい正しいと思った。
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