エレファント・マン(1980/英=米/The Elephant Man)
監督 デイビット・リンチ
出演 ジョン・ハート / アンソニー・ホプキンス / アン・バンクロフト / ジョン・ギールグッド
 
 
 頭から上半身全体が激しく奇形化し、親からも捨てられ、見せ物小屋(フリークショー)に出演して生きる青年ジョン・メリック(ジョン・ハート)。その奇形からエレファント・マンとよばれている。あるとき外科医(アンソニー・ホプキンス)が治療のために病院に引き取ることになる。やがて周囲は次第にジョン・メリックが高い知性と感受性の持ち主であることに気づく。が、もともとの「持ち主」や彼を食い物にしようとする人々に翻弄されていく。
 デビッド・リンチ監督による1980年の作品で、アカデミー賞8部門にノミネートされた作品。実話をかなり忠実に再現している話だという。モノクロの映像が良いのか悪いのか・・・。
 映画中で「病院に収容することでジョン・メリックを食い物にしているのではないか、見せ物小屋が病院にかわっただけではないか」、と問題提起されているが、この映画を見るときに、さらに考えなければいけないのは、「この映画自体がジョン・メリックを食い物にしているのではないか、フリークショーと同じ発想なのではないか」ということ。
 映画自体がジョン・メリックを食い物にして金儲けしているのだからダメ、っていうのは、短絡的発想過ぎるだろう。どんなショーでも見せ物でも芸術でも、誰かのイタイところを食い物にしているのだから。音楽でも文学でも、そういった「苦しさ」「弱さ」「痛み」を見せるところでわれわれの心を動かしてくれるのだ。しかし、当然の事ながら本人がそれを望んで表現する場合と、まわりが痛みをほじくり返す場合ではまったく別物だ。芸術においてそいった「痛み」はみずから表現している。しかしジョンの場合はちがう。
 ではジョン・メリックのように生まれてきてしまった場合、どんな生き方が一番しあわせなのだろう。ジョン・メリックのように生まれてきてしまった以上、「普通に」生きていくことは不可能だろう。ではどうすれば・・・。それとも「普通に」生きていくことは可能なのだろうか。
 ジョン・メリックを食い物にすんな、だからこの映画もダメっていう人はこういったフリークをみたくないのだろうか。わたし自身、奇形を見たい、という気持ちは絶対に否定できない。そして監督のデビット・リンチもそれをわかっていてエレファント・マンをすぐには登場させず、すこしづつだすようにしている。明らかに「エレファント・マンがみたい」という気持ちを刺激している。
 障害者を見かけたとき、「じっと見てはいけない。でも、意識して見ないようにするのも逆にダメだ」、という気持ちは、だれでも感じたことがあるとおもう。「見て見ぬ振りをする」とはどういう事なのだろうか。普通と違う人に注視してはいけないのだろうか。
 いろいろと疑問が沸いてくる。いろいろと問題が浮かび上がってくる。どれも答えのなさそうな疑問だ。
 問題を浮かび上がらせてくれる作品は良い作品だろう。といっても特別新しいテーマではないが。
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