過去ログ 2003年11月ごろ


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[12/04] 生きる意味 〜答えは、友よ、風に吹かれている〜

 

 この一週間というもの、わたしは自室に閉じこもり、種種雑多な事柄について思索を深めていた。冬の足音を窓を通して感じながら。意思の透徹によって疲労を覚えるときもあった。そんなときわたしは、ワーグナーの歌劇に耳を傾けた。張り詰めた精神の弦を緩めてくれるのは、ただワルキューレのみだった。ふと気がつくと、頬をあつい涙が伝っていることもあった。

 

 「いったい人生とは何であろうか?」
 「生きている意味とは何であろうか?」
 「このままで良いのか良くないのか?」
 「なぜパンチラはステキなのか?」

 

 主に考えていたのは最後の疑問である。ほかの三つの疑問などは、最後の疑問に比べればウンコのようなモノだ。いや、ウンコはまだ畑に撒けば、肥料になるが、それ以下といっていい。ウンコにたかるハエだろうか。いや、それではハエに失礼だ。たとえるならば、ウンコのなかに消化されずに残っていたニンジンのカケラ。そう、ウンコの中に消化されずに残っていたニンジンのカケラ並である。

 

 と、思ったのだが、考えてみると、消化されずにのこったニンジンというのも、愛しく思われてくる。考えてもみて欲しい。ほとんどのものは胃と腸を通って消化された。にもかかわらず、ニンジンは消化されなかった。どうだろう、この忍耐強さ!! 超人的な忍耐強さ!! ほかのものはこげ茶色の塊となっている。そのなかに燦然と輝けるオレンジ色の物体。ニンジンのカケラがたどってきた運命を考えるとき、わたしは感動を覚える。胃液にも耐え、腸液にも耐えた。痛みに耐えてがんばった。

 

 そう考えると、わたしは、そのカケラを取り出して額にいれて、家の玄関に飾っておきたい気持ちにすらなる。そして「これが消化されずに残ったニンジンのカケラです!!」と胸をはって来客した人に見せつけたくなる。そして、人間は、ニンジンのカケラのように忍耐強くありたいものだ、と思う。

 

 となると、最後の疑問を何にたとえて良いのかわからなくなるが、とにかく、最後の疑問は重大である。なぜならこの疑問には人間存在の根源的理由を解き明かす鍵が隠されていると考えるからだ!! そうだ!! パンチラには人間の生きる意味が隠されているのだ!! そうだ!! そうだ!! すごいんだ!! パンチラ万歳!!

 

 ところで、話題は変わるが、わたしは最近疲れているような気がしてならない。そんな疲れた心を癒してくれるもの。それはきっとパンチラである。

 

 そして、わたしは祈る。

 

 「風よ吹け!!」と。

 

 

[11/23] たこ焼き

 

 わたしはたこ焼きにタコが入っていないとき、怒りに打ち震える。

 

 たこ焼きにタコが入っていないなどと言うことがありえるのだろうか、そんなのたこ焼きじゃないではないか、と思う方もいるかもしれないが、事実あるのだ。たこ焼きにタコが入っていないと言うことがありえるのだ。信じたくないかもしれないが、あるのだ。

 

 数日前、わたしは新宿の屋台でたこ焼きを買った。500円だった。たこ焼きを口に入れ、わたしはたこ焼きの中からタコが現れるのを待った。わたしは、たこ焼きの中に入っているタコほど好きなものはない。わたしは今まで20年以上生きてきたが、もっとも素敵なタコの味わい方は、たこ焼きとして食べるタコあると、100パーセントの確信をもって断言することができる。酢だこや、おでんで食べるタコなんかより、100倍素敵な食べ方であると断言する。

 

 わたしはたこ焼きの中のタコを見つけようとした。口内で舌をグルグルまわした。しかし、舌をいくらベロベロ動かしてもタコは現れなかった。そんなはずがあるだろうか。わたしはもう一度口の中に指まで突っ込んでタコの存在を見つけようとした。しかし、見つからなかった。ない。このたこ焼きには、タコがないのだ。

 

 その瞬間わたしの怒りは頂点に達した。顔は一気に真っ赤になり、頚動脈が破裂するがごとき激しい怒りが全身を襲った。強く握られたコブシはたこ焼き8個入りパックをしっかりと握りつぶしていた。わたしは、天地を揺るがすかごとき雄たけびを上げると、阿修羅の様な形相でたこ焼きを買った屋台に猛然と向かっていった。そんなわたしを見て周囲の人々は恐れ慄き、自然と道を空けてくれた。

 

 わたし「あの…」

 たこ焼き屋兄さん「…はい?」

 わたし「…い、いえ。なんでもないです。」

 

 だめだ!!

 わたしは兄さんの顔を見た瞬間に負けを悟り、あきらめた。強そうすぎる。なんであんな強そうなんだ。このたこ焼き兄さんと殴り合いをしたら、三秒で死ぬ。わたしは確信した。一秒で、左ジャブがクリティカルヒットし、二秒でボディーブローが決まり、三秒でアッパーで絶命。わたしはそれをつよく確信した。

 

 なぜならわたしは正真正銘のもやしっ子人生を送ってきたからだ。喧嘩などしたこともないし、したくもない。第一に痛いのが大嫌いなのを思い出した。注射もすごい怖い。泣きそうになる。ドッヂボールでさえわたしは痛いから嫌いだった。

 

 たこ焼き兄さんはというと、15歳のときにバイクを盗んでいそうな顔をしていた。15歳のときに校舎の窓ガラスを鉄パイプで叩き割ってそうな顔をしていた。16歳で女を妊娠させ、むりやり中絶させてそうな顔をしていた。二の腕にはタトゥーとか余裕で入れてそうな雰囲気であった。こんな男と殴り合いをしたらどうなるか。それはもう一瞬でわかった。

 

 そう、タコ殴りにされるのだ。

 


 

[11/22] 神の力

 

 わたしは今日も再び、人知を超えた超人的なパワーに突き動かされるのを感じた。

 

 きょうの午後のこと、わたしは電車に乗っていた。すると前に女子高生がすわった。制服を着た女子高生だった。かわいい女子高生であった。大きな荷物を持っているところをみると部活帰りだろうか。部活帰りで疲れているのだろう、しばらくすると女子高生はすやすやと眠りの世界に誘われていった。わたしは自然と、自分の高校時代を思い出していた。わたしも部活がえりには疲れて電車で寝たなぁ…。

 

 しばらくすると、女子高生の足が、すこしづつ開き始めた。わたしはもちろん20を過ぎた大人であり、そんなことには大してなんとも思わない。心を動かされることもない。心は常に大海の水のようにゆったりと波打つのみである。わたしは、ああ、本当に疲れているのだなぁ、とやさしい気持ちで女子高生を見守っていた。

 

 しかし、そのときである。わたしを超人的なパワーが支配したのは。わたしの体は、わたしの意に反してどんどんずれて行き、どんどん目線が下がっていった。まったく信じられなかった。そして、ついにわたしの目には、女子高生のふとももの間からのぞく神秘の三角ゾーンが目に飛び込んできたのである。ほんのわずかだったが、たしかにそれは、神秘のヴェールだった。わたしは、目を背けたかった。そんなものはみたくなかった。しかし、超人的なパワーに突き動かされたわたしの体と目は、執拗にその部分を注視していた。目が乾き、充血するくらい注視していた。そして、なぜか微妙に興奮したような気がする。

 

 その瞬間、女子高生は目をさまし、体制を立て直した。すると不思議なことにわたしを突き動かしていた神秘的な力は一気に解け、わたしは再びもとの姿勢に戻すことができたのであった。

 

 最近、わたしはこの神秘の力に操られ、どうにかなってしまうのではないかと不安で仕方がない。

 

 まったく恐ろしい話である。

 

 

[11/21]  下半身が冷えたせいか風邪気味なわたし

 

 わたしはときどき人知を超えた超人的なパワーに突き動かされているのを感じる。昨日、夜中にパソコンに向かっているときにもそれを感じた。昨晩、わたしはパソコンにむかい、ひとりウェブサーフィンをしていた。そして、あるサイトを見ているときだった。突然、雷から打たれたかのようになり、全身がわなわなと震えだし、額からは汗が流れた。そして目の前に光が満ちた。

 

 わたしは震える手でマウスをつかむと、「マイドキュメント」フォルダを開き、つぎにそのフォルダの中から「厳選動画」のフォルダを開き、その中からある動画ファイルをクリックし、そしてヘッドフォンを装着していた。その後のことは覚えていない。再び意識を取り戻したのは10分後だった。10分後、気がつくとわたしは、便所で手を洗っていた。

 

 部屋にもどったわたしは驚愕に腰を抜かしそうになった。部屋の中は築地魚市場のような生臭い匂いに満ちていたのである。

 

 これも神のパワーのせいか…

 

 わたしは神に対する畏敬の念を新たにせずにはいられなかった…

 

  

 

[11/18] 人間は20歳を過ぎると老化する

 

 ポール・オースターというアメリカの作家に『孤独の発明』という作品がある。この作品で、主人公の男は父親を突然亡くす。ところが、あまりに唐突な出来事に、悲しみも動揺も感じることがない。感じるのは当惑のみ。ところが、父親の遺品のネクタイを整理している時、突然「父親が死んだのだ」ということを痛切に実感し、泣き崩れる。これはまさに、「些細な出来事をきっかけに、事の重大さに気づく」一例と言える。

 

  些細な出来事をきっかけに、事の重大さに気づくということは、誰しも経験したことがあるだろう。わたしが自分の老化を感じたのも、同じように些細なことをきっかけにしてであった。

 

 人間は20歳を過ぎると老化が始まると言われている。わたしはすでに22歳であるから、もう2年も老化していることになる。しかし、わたしには、到底そのようなことは信じられなかった。老化の第一歩としてよく言われる様な、一日遅れの筋肉痛を感じたこともない。階段はいままで通り息切れせずに上ることができる。視力はもともと悪く、かなり以前から変化はない。オレには老化など関係ないのだ。

 

 そう信じていた。

 

 しかし、それは単なる自惚れに過ぎなかった。現実が見えていないだけだった。筋力は確実に低下し、肉体には確実に老化の陰が忍び寄っていた。ある些細な出来事をきっかけにして、わたしは否応無しに厳しい現実を知らされたのだ。そう、ある些細な出来事をきっかけにして。

 

 先日、わたしはある日の夜7時に近所の駅で友人二人とまちあわせをしていた。飲み会があったのだ。わたしはパソコンに向かい、マインスイーパで時間まで暇をつぶしていた。「もう、そろそろ時間だろうか」と時計に目をやると、時計は6時55分前を指していた。待ち合わせの時間まで5分しかない。わたしは焦り、速攻で用意を済ませ、速攻で駅まで走り出した。

 

 秋の空気は冷たかったが、体は、運動で徐々に温まっていった。太ももの筋肉に、心地いい負荷を感じた。足は軽快にわたしの体を駅に向かって運んでくれる。顔にあたる秋の風が気持ちいい。うん、この調子なら10分ほどの遅刻で間にあうだろう。まあ、ちょっと遅刻だが、しょうがない。そう思った瞬間だった。階段を一歩下りた瞬間だった。

 

 うんこが漏れた。

 

 高校生のころだったならば、肛門をキュッと締めて、軽快に走っていたことであろう。内部の物をしっかり支えてくれただろう。しかし、2年間の老化を経た、わたしの肛門筋は、内からこみ上げる物をしっかりキープするだけの力をすでになくしていた。悪いことにその日は腹の調子が悪かった。半液状化したモノがパンツに滲んでいくのを感じた。わたしは、情けなさと悔しさと失意のどん底の中で、家に戻り、トイレに駆け込み、ズボンを脱いだ。そこにはしっかりと私の老化のしるしが茶色く描かれていた。

 

 失意と絶望の中で着替えを済ませたわたしは、再び駅に向かって歩き出した。そして三十分遅れで到着した。

 

 その日の飲み会のことは、最初の30分以降、一切覚えていない。どうやって家に帰ってきたかすらも。

 

[11/15] 秋葉原とわたし(その1) 〜買うべきか買わぬべきか。それが問題だ。〜

 

 わたしはときどき、人類が未来永劫解決できないんじゃなかろかという、深遠なる悩みの無限ループにおちいる。すなわち、「欲しい物が超いっぱいあるんだけど金がない、しかもバイトとかしたくないんだけどー」という悩みである。コンビニで刃物を突きつけて金を奪うとか、電話帳から手当たり次第電話を掛けて「オレオレ…オレだけど…交通事故に遭っちゃってサーばあちゃん300万振り込んでくれー」と言う方法とかもあるが、後に大変なことになる可能性が高いので、それは止めたい。

 

 きょう、わたしは秋葉原に行った。秋葉原で並ぶ商品を見ながら、わたしの内面奥深くに潜む「物欲魂」がヒシヒシと刺激されているのを感じた。ハードディスク型のMP3プレーヤーを見ていると手が震え、SACDプレーヤー(スーパーオーディオCDというスゴイCDを再生できるスゴイCDプレーヤーだが、高い)を触っていると、足が震えた。ジャンク物のリブレット(12000円くらい)を撫でていると、全身に電気が走った。内部の「物欲魂」が激しく蠢いているのを感じた。激しくノドが乾いた。

 

 そして、財布の中には金が無いにもかかわらず、商品を手にしてレジに向かうと、三井住友の銀行のカードをピピッとやっていた。物欲魂にとって世界最悪の伏魔殿といわれるあのソフマップでである。ソフマップは良くない。極めて良くない。クレジットカードをもっていないわたしでもデビットカードが使えるのでつい、使ってしまう。MP3プレーヤーを買ったのも、CD−Rドライブを買ったのも、テレビキャプチャボードを買ったのも、このソフマップである。

 

 きょうわたしは、CD−Rを50枚買った。家にストックがまだあるにもかかわらず買った。しかもCD−Rドライブが壊れているにもかかわらず買った。「物欲魂」にとって大切なのは買う行為その物であって、買った物ではない。わたしは、沈静化した物欲魂と、浅薄な満足感と、肩こりを抱えて家路についた。CD−Rは重いのである。オチはない。

 

 

[11/11] ラーメンの食べ方

 

 ラーメン屋には醤油やラー油、酢などと一緒に、かならずといっていいほどニンニクがおいてある。このニンニクは絶対にいれるべきである。ラーメンにはニンニクを入れるべきである。もう一度繰り返し言う。ラーメンにはニンニクを入れるべきである。

 

 口臭なぞは一切気にせず、入れるべきである。なぜならニンニクを入れると、ラーメンのうまさは二倍にも三倍になるからだ。ラーメンとニンニクの相性は極めて良い。ジャンボ尾崎とジャンボカットの相性くらい相性がいい。若乃花が弟の事を思い浮かべつつ、「いいよなぁ…」って涙するのではないだろうか、ってくらい相性がいい。貴乃花に聞かせてあげたい。

 

 ニンニクの入っていないラーメンは、いわば石原軍団が応援に来ない石原慎太郎三男・宏高氏の選挙演説の様なものである。あるいは、七三分けにしたジャンボ尾崎みたいな物である。石原都知事三男に石原軍団が、カレーには福神漬けが、牛丼には紅ショウガが必須である様に、ラーメンにはニンニクが必須なのである。

 

 もし、ジャンボ尾崎が七三分けに登場してきたらどうだろう。あるいは、アフロにして登場してきたらどうだろう。きっと観客は暴徒と化し、ゴルフクラブが血にまみれるに違いない。もし、林家ペー・パーが全身黒ずくめで登場してきたらどうだろう。カメラは即座に奪われ、暴徒と化した観客から唾を吐きかけられるだろう。これと同じ事。ラーメンにはニンニクである。

 

 吉野家や松屋などで食事をしていると、牛丼に紅ショウガを山盛りにして辺りから軽蔑のまなざしを受けている人をわたしはよく見る。彼らの様な人々をみるたびにわたしの心はドキンと痛む。ああ、ここにも人生の裏街道を歩く一人の人間が独りポツンと牛丼屋にたたずんでいる。なんて可哀想な人なんだろう、と。

 

 そう。物には節度がある。ニンニクも山ほど入れれば良いという物ではない。ラーメンを適度に引き立てる程度に入れるべきなのだ。備え付けてあるサジで一回から二回入れる。それが適量である。

 

 ところが近頃は、口臭を気にして、ニンニクを入れない人間がおおすぎる。わたしはそのようなエセ中流階級意識庶民の小心者に声を大にして言いたい。

 

 口臭ごときがなにごとか!!

 ニンニクをバカにするな!!

 ニンニクだってナスやキュウリやニンジンと同じ植物じゃないか!!

 幼稚園の時、「みんなみんな生きているんだ友達なんだ」ときみたちは習わなかったのか!!

 

 いままでニンニクの臭いを気にして決していれなかった、そこのメガネのお姉さん。そして、そこの網タイツ履いているOLさん。ブラのずれを直しているお姉さんも。あと、そこで鏡見ている制服のお嬢さん。足を組み直した黒髪のお姉さんも。ちょっと勇気がでなくて躊躇していたアナタも。どうです?ひとつニンニク入れてみませんか?

 

 

 

 お尻に

 

 

 

 うそ、ラーメンに(^^)/

 

[11/10] アンコとわたし

 

 たい焼きの尻尾までアンコが入っていない時、わたしは怒り心頭に発する。

 

 たい焼きは尻尾の先端までびっしりとアンコが詰まっていて当然である、とわたしは確信している。いや、世間一般的にもたい焼きの尻尾までアンコが入っているべき、というのは常識となっているはずである。いなかではどうだか知らない。少なくともこの大都会の東京では、常識となっている。いなかモンは、東京に来た際に聞くてみるがよい。「そりゃ当然だろ。」と東京人は答えるはずである。

 

 アンコが尻尾の先端まで詰まっていない時の悔しさは、網タイツを履いたOLさんが不細工だった時の悔しさに匹敵する。ちなみに、網タイツを履いたOLさんが、「赤坂プリンスホテルまでお願いします」と言って乗ったタクシーの運転手さんが、「このまま山奥に連れて行ってチョメチョメしちゃおっかなぁー、ムフフ」とヨコシマな考えを起こす確率は、網タイツの網の目の大きさに比例するという噂があったりするらしい。

 

 先日、わたしが良く行くたい焼き屋が、たい焼き50円セールをやっていた。わたしは速攻買った。「50円セール」という旗を見た瞬間に、「これは買わねば」と確信し、即買った。一瞬の迷いもなく買った。マジで速攻たべたくなって買った。そして、買ったその場で食らいついた。尻尾に食らいついた。

 

 その瞬間、わたしの怒りは心頭に発した。怒髪天をついた。目には血管が血走り、手には汗が滲んだ。下半身の海綿体には血が集結し、カッチカッチとはならなかった。アンコが詰まっているべき尻尾にはアンコが詰まっていなかったのである。怒りに燃えたわたしは、店員の首根っこをつかみ、食べかけのたい焼きを見せつけ、「尻尾までアンコが入っていないとはどういうことだ?ふざけるな。ふざけるな。ふざけるなー。」と言おうかと思ったが、店員さんがかわいかったので許してあげることにした。

 

 美人にはめっぽう弱いワタシである。とはいえ、アンコは尻尾の先端まで入れて欲しい物であると、思った秋の一日であった。

 

[11/08 その2] 神秘の泉

 

[11/08 その1] わたしの手書き文字は汚い

 

 わたしはわたしほど文字の汚い人間を未だかつて知らない。見た瞬間に吐き気を催し、文字の書いてある紙を引きちぎり、くるくる丸め、ダストボックスにポイって感じの文字である。女子高生だったら「マジでありえないんだけどぉ」と言いながら、ルーズソックスを脱ぎかねないくらいの汚さである。オマエは歌舞伎町コマ劇場まえの広場に布団をひいて寝転がっているおっさんか!! ってくらい汚い。

 

 パソコンをヘヴィーかつ日常的にグイグイ使用する様になってからというもの、文字の汚さにさらに磨きがかかった。その上、漢字を思いだせなくなったために、ひらがなが増えた。ゆえにわたしの書く手書き文章というのは、ひらがなばかりである上に、超汚い。見た瞬間に、髪をかきむしり、トイレに駆け込み、トイレの壁をバンバン叩き、全力で陰毛を引っこ抜きたくなるくらい汚い。

 

 これほど汚いために、わたしはあらゆる文章を書くのにパソコンを利用している。学校のレポートは勿論パソコンを使って書く。日記もパソコンで書く。授業中のノートは一切取らない。パソコンを使えないからだ。

 

わたしはパソコンが好きだ

大好きだ

キーボードが大好きだ

インターネットが大好きだ

好きだ好きだ

大好きだ

愛している

気が狂わんばかりに愛している

 

 どれくらい愛しているかというと、パソコンのディスプレイを見た瞬間に、トイレに駆け込み、トイレの壁をバンバン叩き、全力で両手で陰毛を引っこ抜きたくなるくらい愛している。引っこ抜いた時に顔が引きつり、目が涙目になり、陰部から血が滲んでも、笑顔で痛みに耐えられるくらい愛している。

 

 しかし、なぜわたしの文字はこんなにも汚くなってしまったのだろう。たしかに、小学生のころのわたしの文字は大変きれいだった。ブリトニー・スピアーズの乳首と同じくらいキレイだった。ブラッド・ピットの胸板と同じくらい立派だった。女子高生だったら、「マジでありえないんだけどぉ」といいつつ、ルーズソックスを紺のハイソックスに履き替えないくらいキレイだった。

 

 ところがどうだろう。いまではヤミ金の手口と同じくらい汚くなってしまった。某宗教団体の信者勧誘の手口と同じくらい汚くなってしまった。アロマ企画で売っている怪しいビデオなみに汚くなってしまった。

 

 しかし、わたしはまだ、ブリトニー・スピアーズの乳首を見たことがない。だから大丈夫。まだまだやっていける。そう、自分の手書き文字をみて確信したのだった。

 

 

P.S ブラッド・ピットの胸板は『ファイト・クラブ』で見た。

 

 

[11/07]


むかしむかし、あるところに、ナミエツコという芸能人がいました。

 

神様 「…おぬしが落としたのはどちらの乳首じゃ。このピンクの乳首かな?それとも黒の乳首かな?」

ナミエツコ 「ピンク!!」

神様 「…ウソをつくでない!!」

 

こうして嘘を付いたナミエツコは、永久に乳首を返してもらえませんでした。

 

 おわり

 

[11/05]


 「むふふふ…お尻の穴みせてくれないかな?」

 「おやすいご用よ、ホーレ!! ペロロローン!!」

 「おおっ!! これは…トイレットペーパーが付いてるヨ!!」

 「そうよ!!  わざと付けといたのヨ!!」

 「おおっ!! 確信犯ダネ!!」

 

 ノーォォォォォォォォォォ!!

 

 いつからこのサイトはこんなに汚らわしいサイトになったんだァァ!! オーマイガッ!! っと思いがちですが皆様、違います。わたくしの意図は、そのような汚らわしいところにあるのではありません。わたくしが意図しているのは日本語の誤用に警鐘を鳴らたい、ということです。

 

 問題は一番最後の行に見られる「確信犯」の用法です。「確信犯」という言葉ほど、誤用が多い語もありません。「悪いと知っていて、わざとやった」という意味で使われる場合が多いですが、そういう意味ではありません。「正しいことであると信じてやった」という場合に「確信犯」というのです。

 

 詳しくは面倒臭いので、他のサイトで調べて見てください。

 

 

[11/03]

作ってみました。FLASHプラグインが必要です。

[11/02]

 

 チェケ!!

 

 ラッ!!

 

 ツモ!!

 

 ってなかんじで麻雀とかやってます、朝から晩までタバコ吸いながらロン、ポン、カン、ツモとか言いまくってます、タバコ吸いまくりで歯は見事に黄色です、趣味は麻雀だけです、麻雀のやりすぎで嫁には逃げられました、娘は15で嫁に行きました、履き古したパンツには穴が開いています、借金1000万あります、仕事はありません、というようなAさん(56歳)の様な男性が不況のあおりを受けて増加しています。

 

 わたしはこのような方々の話を聞く度に、胸が激しく痛みます。Aさんだって本当は優しい優しい心の持ち主なのです。世が世なら良い父親、良い夫として娘と妻から愛され、幸せな家庭を築くことができたでしょう。

 

 朝起きて家族と熱いコーヒーを飲み、バターを塗ったトーストを食べる。エプロンをした妻と制服姿をした娘の笑顔に見送られながら、家を出る。一日の仕事を終えて帰宅。休日には家族揃って外食する。つまらないオヤジギャグを言っては妻と娘に笑われる。平凡だけれども、いや、平凡がゆえに幸せな生活。そんな生活がAさんにもあり得たはずなのです。

 

 それが不況によりAさんは職を失い、麻雀に走ってしまった。その結果、多くの借金を失い、妻にも逃げられた。娘も15で嫁に行ってしまった。使い古した穴の開いたパンツをはかなけらばならない。つまらないダジャレを言う相手さえいない。まったく、悲劇的な状況と言わざるをえない。

 

 わたしはこのようなニュースを聞く度に「運命」というものについて考えずにはいられません。「運命」という荒波にのまれて、人生は転落の一途をたどるのです。人間は「運命」や自然の前では竜巻に巻き込まれた一枚の木の葉の様な存在です。抵抗することなど不可能なのです。あとは、ただその疾風怒濤に身を任せるしかありません。

 

 運命を前にしては、才能や努力にも限界がある。

 これは厳然とした現実です。

 

 運命による生活の転落というものは仕方がありません。しかし、一度転落したからと言ってあきらめる必要はないのです。いまある資源を精一杯活用して、一歩一歩道を切り開いてゆく。そのような気持ちが必要でしょう。前に進む意志。あきらめない力。それこそが人間を人間たらしめてきた精神と言えるでしょう。

 

 大切なのは自分自身をしっかりと見つめ、いまもてる限りの資源・才能・能力を最大限に利用するということです。Aさんだったら、なにがあるでしょうか。能力・才能といえば麻雀をする能力と会社員時代に身につけた簿記とわずかばかりの英語。

 

 資源はどうだろう。周りを見渡してみる。食べかけのコンビニ弁当、汗が滲んで黄色くなったTシャツ、くしゃくしゃになったティッシュ、穴の開いたパンツ…

 

 穴の開いたパンツ…そうだ穴の開いたパンツだ!

 

 Aさんは閃くのです。

 

 「いままでのパンツとズボンにはチンコを出す穴があった。たしかに小便をするときにはそれが便利だ。しかし…ウンコをする時はどうだ? いちいちズボンとパンツをおろさねばならなかったじゃないか。そうだ!後ろにも穴の開いたズボンとパンツを開発すればウンコもすぐにできる。このハイスピードの時代に求められるモノはコレだ!」

 

 こうしてAさんは、「すぐうんこズボン」と「すぐうんこパンツ」の特許を申請。「すぐうんこズボン」と「すぐうんこパンツ」は爆発的な売り上げを記録。数年後には巨万の富を得て、総費用15億円の「すぐうんこ御殿」を建設。元妻ともよりを戻し、幸せな家庭を築くことができる様になるのです。

 

 あきらめてはいけません。

 

 自分自身をしっかりと見つめ、じっくりと考えてみる。

 

 ここから全ては始まるのです。