走れ幸二
 八月の雨は幸二の肩を容赦なくぬらしていた。幸二は六甲山を見上げながら、一人過去に思いを馳せていた。エレンのことが気がかりだった。いや、もう過去のことは忘れなければならない、忘れよう、と幸二は一人つぶやき、頬に伝わる涙をそっと拭うと、何か決心したかのように力強く六甲山にむかって走り出した。
「スイマセーン、オニーサン、チョット、遊んでイカナイ?ヤスクするよ。」
幸二は突然、フィリピン系の女性に呼び止められた。
「ホントにやすいのかよ?いくら?」
「イマなら、一時間、イチマンエン。いいサービスするヨ。」
「うーん。まけてくんない?」
幸二は手をパーにして言った。
「これで、どう?」
「ゴセンエン、ムリネ。イチマンエン、限界ネ。」
幸二は激怒した。必ず、この女を説き伏せて、まけさせなければならぬと決意した。幸二には相場はわからぬ。幸二は、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
「てめー、足下みてんじゃねぇーよ。しばくぞ、コラァ。」
「ムリね。ぜったいムリね。」
幸二は腕に唸りをつけて女の頬を殴った。
「イタイ。チがでた。ウッタえてヤル。」
女はわめき立てた。
「血なんかでてねぇーじゃねーか、ボケ。」
「チでてるヨ。でてるヨ。」
幸二はとっさに自分の取った行動が間違いであることにきづき、あやまった。
「わるかった、許してくれ。」
女は泣きじゃくりながら、絞り出すように言った。
「イイの。わたしがワルカッタノ。」
「いや、悪かったのはオレの方だ。許してくれ。」
幸二は、ひどく赤面した。
「ありがとう、友よ。」
二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
戻る